明太子との出会い
明太子の歴史をさかのぼる
そもそも明太子とは?
明太子の起源
朝鮮半島の漁民の間で古くから、介党鱈の卵を食べる習慣がありました。
これが明太子の起源と言われています。
明太子の原料は介党鱈
出典:ウィキペディア
明太子の原料は魚の卵です。
北太平洋に広く分布するタラの一種で、介党鱈(スケトウダラ・スケソウダラ・助惣鱈)という魚がいます。
体長は約70cm、最大で約90cmほど。
寒い地域に生息する魚です。
その卵巣が原料となります。
介党鱈は傷みが早いため鮮魚として流通する事は少なく、練製品の原料として需要が多い魚。
傷みが早く、脂質が少なく、水っぽいため、生食には適さない。
しかし、卵のほうは美味しく、塩漬けにした卵が辛子明太子の原料として使用されるようになりました。
明太子を日本に持ち込んだ樋口伊都羽氏
明太子を日本に持ち込んだのは会津藩士の息子、樋口伊都羽氏(ひぐちいづは)です。
樋口氏は朝鮮に渡った後、水産業を目指し漁業に従事する事になります。
明治40年に釜山で「樋口商店」を創業。
1900年代明治時代に明太子は朝鮮から九州に渡る事になります。
樋口氏は朝鮮で漁民が食べていた明太子に目を付け、日本で販売する事を始め、明太子事業を起動にのせる事になりました。
しかし、戦争の混乱にあい、樋口氏は財産を一切失い、晩年は明太子と関わる事はなく、帰国してからは農業に従事したそうです。
山根幸三氏・高井英一郎氏により明太子復活
時は経ち終戦後。
北海道産の紅葉子(もみじこ=介党鱈の卵を塩漬けしたもの・たらこ)に目を付けた下関の油正商店の山根幸三氏が大量に扱うようになりました。
山根氏が紅葉子を仕入れたのは、同社に勤務していた高井英一郎氏の妻のつてによるもの。
妻の実家があるのは北海道という縁から。
その後、高井氏が山根氏から支援を受け、北海道の紅葉子に唐辛子を散布した辛子明太子を開発・販売を始めました。
「散布型・まぶし型辛子明太子」です。
川原俊夫氏により辛子明太子は博多名物となる
その後、味のふくやの創業者の川原俊夫氏が新たな明太子を開発する事になります。
それまでと違った「漬け込み型辛子明太子」です。
高井氏の方法「散布型・まぶし型明太子」は、唐辛子以外に酒粕をまぶしたり、酒を染み込ませて作られたもの。
川原氏の方法「漬け込み型辛子明太子」は、辛子調味料に漬け込み、更に乳酸発酵をさせたもの。
川原氏は商標登録も特許も出願せずに、同業者にこの「漬け込み型明太子」の作り方を教えました。
さすれば、辛子明太子の作り方を知った他の製造業者も、そこから更に試行錯誤、創意工夫する事となり、様々な明太子製品が生まれる事に。
次第に福岡県民の間に浸透していく事となります。
昭和24年に発売開始されましたが、最初はなかなか売れなかったようです。
昭和35年頃から売れ出したとの事。
更に、昭和50年に新幹線が開通した事により、辛子明太子は一気に全国に広がり認知されるようになる事に。
そうした所以で辛子明太子は博多名物として定着しました。
川原氏が辛子明太子の販売を始めたのは1949年(昭和24年)1月10日の事です。
ふくやさんはこの日を「明太子の日」と制定しました。
ちなみに川原俊夫氏は、ラーメン店「なんでんかんでん」の社長の川原ひろし氏の大叔父にあたる人です。
おわり